場所の記憶1・2


【場所の記憶1】

(8/24日現在)
昨日から今日の流れ

自宅でワークショップ
船岡温泉
就寝
近所のうまい中華料理屋
鴨川沿いの道
下鴨神社糺ノ森
座敷でカキ氷
京阪電車
川床のカフェ
ノムラテーラー


今年で京都に住み始めて約10年

何度も繰り返し通ったあの道が

誰と行くかで全く表情を変える不思議

全く同じ通りなのに

いつ、誰と、どんな気持ちでその場所を通るかだけの違いによって

昔他の誰かと一緒に居た場所とは
全くレイヤーの異なるセカイになる不思議

今いるこの場所から
同じ場所の、別のレイヤーで過ごした時の自分が透けて見える

街は身体、街は生き物、
街に通りがあるように
身体にも通りがある

何度も何度も通ったはずの
今の自分の身体の通りに
過去の自分が透けて見える



【場所の記憶2】

京都という街は中心から放射状に広がるのではなく
縦軸と横軸がはっきりとあり
上、下、右、左まであるという意味で
とても身体的な街だと思う

(実際右京区、左京区というのも
地図で街を見ている側にとっての右左ではなく、街が仰向けに天を見上げていると考えた時の右左だということからもそう言える)

僕は今まで京都市内で2回ほど引越しをしたけれど、どこに自分が住んでいるのかで街の表情はガラリと変わる

北区に引越して来たばかりのとき
10年近く左京区に住んできた自分の"街感覚"
はすっかりと左側に偏っていた

川の対岸に引越しただけなのに
今まで何度も何度も通り過ぎてきた細い道に
こんなにも素晴らしいお店がたくさんあったのかと最近はしょっちゅう驚いている

そして、何度も通った大通りでさえ
自分の住んでいる場所とその通りとの距離や関係性が変わると、
自ずとその通りに対する感覚も変わる

近くの大通りだったものが遠くの大通りに変わり

遠くの大通りだったものが身近な大通りに変わる

街身体のどの座標に
自分が住処を置くのかによって
世界が姿を変える面白さ

街から家に帰るためだけにヒッチハイクしたあの道も

大雪で転びそうになりながらスクーターに乗ったあの道も

桜の木と一緒に踊ったあの道も

全部同じ道だったりする

その通り慣れた道から連想される記憶には
数限りがない

身体の中の道にも同じことが言える

いつも通っている身体エネルギーの道から
過去のどんな記憶が蘇ったとしても

子どもの頃よく通っていたのに
すっかり通らなくなったあの道に
子どもの頃の記憶が詰まっていたとしても

今まで一度も通ったことのないあの道に
その人の新しい可能性が眠っていたとしても

そんな事があったとしても
何の不思議もないのだと

最近はすごくそう思う