在り方の世界



昨日大橋翔君と交換セッションをした。
彼が寝ている僕の隣で瞑想を始めると、
僕の身体とのエネルギーの対流が起きて、
激しく何かが流れ始めた。

目をつむっているのに、
触れてもいないのに、
こんなにも身体に作用するのかと驚いた。

舞踏の稽古でも同じような事が起こる。
立つことの稽古をする時、
ただ人が立っているだけなのに
空間が一瞬で変わる。

昨日で確信したのだけど、
そういう踊りって仮に目で観なくても、
踊りの場にいるということだけで
身体に作用するんだなってこと。

踊っている人を視覚的に、
目玉で捉えないと踊りを感じられないという固定観念が、
まだ僅かばかり僕の中に残っていた。

そして先日、僕の整体を受けてもないのに、
整体をしている空間にただ"居た"だけで身体が整ってしまったと語る2人。

最初「そんな大袈裟なw」って正直思っていたのだけど、
どうやら上の2つと全く同じことが起きていたみたい。

「何をするのか?」ということ以前に、
「どういう状態であるのか?」
という「在り方」の世界がある。

肉体は同じ空間にいる時点で既に繋がっており、
ある整った「在り方」をした人が
その中にいると、
他の人達まで自然に整ってしまう。
どうやらそういう事らしい。

先日入ったカフェで御年輩の方々が
前日のプロ野球の話をしていた。
エラーをした阪神の選手のことを
酷く非難している。

「あんなもんワシでもとれるわw
逆に落とす方が難しいw」

といった具合に。

その人達の話をなんとなく聴きながら、
文章書いていたら、

彼らのネガティブベースな会話は出し尽くされて、いつしか子供の頃の楽しかった思い出の話を始めていた。
もっと整うと"今"の楽しい話に変わるのかな?なんて思ったのだけど。

動かなくても、ただそう"在る"というだけで周りの世界が整ってしまうという状態。

"ただ在る"というだけで
こんなにも素晴らしいのに、

こんな身体が動き出してしまったら、
こんな身体に触れられてしまったら、
こんな身体が声を発したら、

こんな身体が歌い出したら、
こんな身体が踊り出したら、
こんな身体が絵を描いたら、
こんな身体が詩の朗読をしたら、

一体どうなってしまうんだ!!

と、想像は膨らむ。

いつか動き出すかもしれないし、
もしかしたらこのままずっと動かないのかもしれない。

でもどちらでも良いし、
どちらであっても素晴らしい。

「何をするのか?」
ということばかりに頭を使うのを少し休めて

「自分は今どういう状態であるのか?」
ということに意識を向けてみる。

赤ちゃんが何をしたって
人を惹きつけるように、

猫がどんな姿勢であっても美しいように、

ただ"存在している"だけで人を惹きつけるのならば、
その人が思いつくままに何をしたって素晴らしい。

そういう状態のことを「自由自在」と呼ぶのかなって思う。