先日、森井俊文さん主催の田植えで教えていただいた「美しき緑の星」というフランス映画を観ました。
「美しき緑の星」【日本語字幕】
基本的には穏やかな内容であるにも関わらず価値観を根底から揺すぶる
相当クレイジーな映画で
深く感銘を受けました。
概要をお話しすると
誰もが協調のうちに暮らし、みん なが幸福で互いに助け合い、何で も分かち合い、お金の必要がなく 、自然と共に暮らす理想的な星から地球に遣わされた宇宙人達が
(切断プログラム)と呼ばれる
「文明に毒された地球人のマインドを
一瞬で切断し、本来の自然と調和し
愛に溢れた状態へと戻してしまう
強力な超能力」を使い
その宇宙人達に害を及ぼそうとする
「いけ好かない堅物達」をどんどん
「切断」
して解放させていく様がコミカルに描かれた非常に痛快な映画でした。
こういう風刺のセンスはやはりフランスの
カートゥーン的なものなのかな?
とも思いました。
この映画を観ていて気になったことは、
この(切断プログラム)について。
(切断プログラム)が「いけ好かない堅物」への仕返しとして描かれている部分が
映画として見る分には痛快で面白いのですが、
実際にこの映画を観てある種の「解放」をされていくのは私達自身であり、
誰もあんなバカみたいには
なりたくはないだろうな(笑)
というのが一つです。
僕自身整体師として
人の「精神と身体の解放」
に立ち会う事が多いのですが、
本人の納得無しに整体師のエゴでその人を
解放しようとすると
必ずしっぺ返しを受けます。
「本人の納得」というものは
何よりも最優先されるべき事のように思います。
人が自分自身を解放し成長するプロセスというものは
実際にはもっと静かでゆっくりと内と外がつながりを取り戻してゆくような暖かい感覚で、
それを映像で表現するのは中々難しいのかなとは思いました。
映画のように強制的にその変化が起こると
本当に「いわゆる変人」になってしまうことがあります。
社会との折り合いがつかなくなり
ふわふわして
「周りからどう見えているのか?」
という客観的な視点を失います。
(この映画ではまさにその様が描かれているわけですが)
人から強要された変化は強烈な痛みを伴い、
新たなトラウマとなるかもしれません。
その人の身体が
その人自身の内面的な成長を受け入れられるようになるまで
気長に待つことが必要なのかなと
最近はよく思っています。
僕自身この映画の中で起こっている事は、
大学生の頃思い描いていたビジョンにそっくりで、
「何本もの大木が地面からどんどん生えてきて無機質なビル群をなぎ倒していく」
という様を
しょっちゅう思い描いていました。
そこには漠然と、
社会というものに対する行き場のない怒りがあって、
本当に一回「解体してしまえ!」と
思っていました。
最近は「あえてルールの中で生きる楽しみ」
のようなものも得ていて、
かなり穏やかです。
多分現状のルールの中に生きているパッションも一緒に酌み取りながらゆっくりと変化しなければ、
急激な変化は新たな別の争いを産んでしまうような気がします。
(正直この映画のサッカーのシーンはあまり好きではなくて、サッカーのルールがバレエのルールに変わっただけのような気がしました。
オーケストラのシーンは大好きでした。
オーケストラのシーンでは
「全ての音楽は根底で繋がっている」
ということが上手く描かれていたのですが、
サッカーのシーンはルールが無いと
もはやスポーツですらなく、
それがバレエのように見えたというのは
結局ダンス=バレエという別のルールに絡め取られているだけだろうと思ったので、
そこにあまり面白さを感じなかったのだと思います。)
色々書きましたが、
この映画は世界の価値観を大きく揺るがす
震源地であり
これから皆が生きていくべき世界の
一つの指標となります。
こんな映画他には無い。
それだけに
この映画をフィクションにしない為にも
しっかりと咀嚼して血肉に変えていきたい。
そんな映画だなと思いました。