先日奈良の「田中誠司舞踏スタジオ」で田中庸平さんが開催した「武医道」の講座を受けてきた。
(武医道とは武術の中にある医術を取り出して使うというコンセプトを持った整体術でありボディワーク、相手の経絡にエネルギーを流すことで反射的におこす「投げ」が特徴的)
僕は誠司さんとペアになっていろいろと実験をしていた。
そして、手を触れる瞬間にホンの小さな起動を示してあげるだけで、
そのエネルギーは螺旋状に全身を駆け抜け、大波のようになってその身を転がすのだということが分かった。
その転がされることが何とも気持ちが良い。
投げ手はホンの小さな起動を伝えてあげるだけで良い。
僕はその時に伝えられるモノを種のように感じた。
種ってこんな小さいのに、何故こんなにも大きく育つのだろう??と思った経験は無いだろうか?
撒かれた種は世界と繋がり、
やがてその身にしまわれたものを展開しながら自分本来の生を全うし、枯れていく。
その種に詰まっているものは、
こう進むよっていう軌道とか、リズムみたいなもので、材料はその場所にあるものの中から選んで、
掴み取って、使っていきながら
大きく成長していくんだなって、そんな事を思った。
平均化訓練をボディワークの世界に打ち込まれた美しい将棋の一手に例えることがある。
その小さな一手からは波紋が螺旋状に広がり、やがて世界を揺るがす大きなうねりとなる。
少し話は変わるが、最近一番身近なダンスって何だろうって考えた話。
例えばある人が車に乗っててラジオからいいカンジの音楽が流れてきたとする。
そしてその音に合わせて思わず指でリズムをとる。
その人は音楽もダンスも経験は無いのだけれど、その気持ちの良いリズムと一体になりたくて本能的に指が動き出す。
その人の指の動きは若干自意識によってブレーキがかけられているかもしれないからそいつは取っ払う。
するとその音楽に対するその人独特のリズムの取り方が現れてくるかもしれない。
今度はその指先のリズムを手首、肘、肩、へと伝わらせてみる。まえよりも大きな動きになる。
最終指先からの力は体幹へと伝わり、指先から動き出すのか体幹から動き出すのかもはや分からなくなる。
身体全体で踊り出す。
そんな指先の動きってダンスの種なんじゃないかって思った。
少なくとも僕は表面指先しか動いてないけど、内部では踊りまくってるって事がよくあるw
(こうして文章を書いているとその内容を思いつく時でさえ、
種のような状態で降りてきて、その先に着地点があると本能的に分かる。
種を大切に展開していくと 、途中で周りにあるものと結びついて新しく枝葉が伸び、
思っていた以上に文章が長くなってしまうことも。
元気が無い時はその種を枯らしてしまうような気がして、文章を書くのがもったいないと思うのかもしれない。
一度枯らしてしまうと同じ種を出そうと思ってももう、そこに生命は無いような気がする。
イメージとイメージが繋がることは自然なことであり、
先刻、平均化訓練の講座でも話にあったがその繋がりの中にこそ生命が宿っている。)