ここ数日、ある人にメッセージを送り続けている。
返事は無い・・・
断絶が起きた原因は、怒りまかせに送った僕の長文メールである、、
SNS上の、あらゆる繋がりを断たれてしまった。
ー僕にはその人の抱える多くの不幸、その原因が見えていた /
少なくともその様に感じていたー
ーそして僕は、その人にいくつかの提案をしたー
ーその人は喜んでその提案を受け入れた /少なくともその様に感じていたー
僕にはその人との"輝かしい計画"があったのだ。
しかしその計画は、その人の"個人的な理由"によりあっけなく断られてしまった。
僕は怒りまかせにその人が僕にとった行動がいかに不誠実であったのかを書き殴り、送りつけた。
すると、メールを送った次の日
その人から、連絡手段の一切を断たれてしまったのだ。
怒りを送りつけた僕の内には未消化の想いだけが残った。
拒絶されているのになおメッセージを送り続けるのはどうかと思ったけど、
やはり抑えきれなくなって、もう友達ではなくなってしまったその人の
"facebookアカウント"に"謝り"の言葉を送った。
そもそも「誰かに何かをしてあげたい」ー
その想いの出処はどこにあるのだろう?
全ての能動的な行動は「独りよがり」になる危険性を秘めている。
僕のその人への想いは"自分の力で他人を変えたい"という承認欲求そのものであったのかもしれない。
その「独りよがり」の危険性を回避するために僕たちにできることといったら、
自分が持ち得る"最大限に繊細な感覚"で、"その人"を感じ取ることでしか無い。
しかし、どこまで繊細に相手の事を感じ取ったとしても、その責任は完全に回避できるものではない、、
"自分"は"その人"ではないのだから。。
「独りよがりでもかまわない」
と、どこかでその責任の一切を自分の内に飲み込むこと、
それ無しに他者に対して能動的に働きかける事などできはしないのだ。
そして、その「独りよがり」の責任を飲み込む事が恐くて、
自分は今まで受動的な人間になっていたのだなと改めて気がついた。
その時、"拒絶"のサインを送っている"その人"に対してなおもコンタクトをとろうとした僕の行動、
それ自体は明らかな「独りよがり」の行動であった。
しばらく待つと、謝りのメッセージに「既読」のマークが付いていた。
・・・読んでいる・・・
その人が今何を思っているかは分からないけど
今、明らかに読んでいる。
僕はなおも謝りのメッセージを送り続けた。
出来る限りの繊細さで相手の事を慮(おもんばか)りながら。
そして、その人から返信のメッセージがきた。
そこには、
「自分は別に怒ってはいないこと」
「怒ってはいないが今は連絡を取らない方が良いと思うから取らない」
などと書かれていた。
そして再び連絡が途絶えた。
僕は少し煽るような、分析的でイラッとする感じの文章を送りつけた。
せっかく開いた心の扉が再び閉じようとしているように感じたから。
このあたりから僕の送るメッセージの質が、ちょっとずつ変わり始めた。
その人に対する自分自身の欲求がはっきりしてきたからであろうか、
メッセージがクリアになるのを感じた。
送り続けるメッセージ全てに「既読」のマークが付くこと、
それだけが僕の"か細い"ライフラインであった。
僕は文章の中で
おどけたり、悲しんだりしてみせた。
普段表に現れない自分の表情が次々と引き出される。
しかも、そのどれもが僕の本音であった。
自分の想いを抑えきれなくて書き始めたメッセージではあったけれど、
その人の力によって引き出された部分もかなりあった。
その人の事を想い、
その人に今必要なものは何なのか
その事に思いを馳せながら言葉を贈る、、
ー気付いてもらうために始めた行動だった。
なんてことはない、、
気付かされているのは僕の方だった。
自分の内のドロドロとした怒りが、
どこまでも透き通って開かれたものになっていくのを感じた。
怒っていた筈なのに何故だか嬉しい気持ちになった。
このメッセージを贈っている際中、
いつも通っている田中誠司さんの舞踏稽古に参加した。
その日のテーマは「デュエット」であった。。
同じ空間にいる相手の存在、呼吸を感じ取り、それに動かされるように反応して踊る。
その時の自分の状況に、甚く共鳴するものがあった。
「デュエット」の相手は 20代前半と思われる小柄な女の子ー
今日はその子の事を感じ取りながら踊る。
しかし、踊っていると急に誠司さんからのストップが入った。
「郷坪さん、自分で踊り過ぎ、もっと相手を感じて」
僕は会話の時、相手より強くなり過ぎる傾向がある。
そう自覚していた。
その日の稽古前、その子と交わした会話でもそうだった。
自分のことを「すごい」と言わせるように仕向けながら会話してしまう。
会話が「デュエット」になっていないのだ。
ここ最近、メッセージをおくり続けている"あの人"との
会話ではどうだっただろう?
"僕はちゃんと、相手の事を感じ取りながら会話できていただろうか?"
"ちゃんとデュエットになっていただろうか?"
ましてや今現在、断絶状態にある"あの人"とのコミュニケーションを
「デュエット」にするためには
一体どれほどの繊細さで接しなければならないのか、、
誠司さんはこうも言った。
「デュエットにおける空間とは何か、、
それは" あなた "と" 相手 "との間に産まれた、その空間のことなんだよ。
そいつが死なないよう、二人で支えるんだ。」
彼の言葉はいつも愛に溢れている。
ー僕がメッセージを贈るー
ー"その人"がそれを読んで何かを思うー
ー僕は"その人"が何を思っただろうか、と想いを馳せるー
ー僕は想いを馳せながら、再びメッセージを贈るー
その中にだって、相手を突き放したり引き寄せたりできるくらいの空間は
まだ残されているのだ。
読んでくれている限りは、、
その日の舞踏稽古を受けたことで
僕の内側の"相手を感じ取る部分"は、さらに繊細になったと思う。
僕は" あの人 "が" 僕 "に話してくれたひとつひとつの言葉を、再び丁寧に思い出すことにした。。
そして今、
どうやらこの数日間送り続けた僕のメッセージも、
" あと一つ " で終わりである。
答えは、"あの人"が話してくれた言葉の中に
"既に"あったのだ。
長い時間をかけて実現されるはずだった僕の"輝かしい計画"は
"わずか数日の間 " に送った
"100行ちょっとのメッセージ " の内に封じ込められた。
"その人"がなぜ、繋がっていたはずの僕との計画を断ることになってしまったのか?
その根本的な原因は何なのか?
今ならば分かる。
ー"診断"は既に終わっているのだー
"あの人"の内側の、
複雑に絡み合った"精神のレイヤー構造"が
"今の僕"の目裏には
鮮やかに広がっている。
ーあとは施術を行うだけなのだー
このワンクリックで
僕の渾身の処方箋が、"あの人"に届く。
ーあの人は返事してくれるだろうか?ー
だけれども、、
もうそんな事は"今の僕 "にとってはどうでもいいのである。
何故ならば、
"あの人には、このメッセージが必ず届く"と
"今の僕 "には分かっているから。。
だから"どうでも"いいのだ。
ー施術の準備は万全だー
だけど、、
その施術が行われるかどうかは分からない。
だって、、
任せられてもいないのに身体を触る。
そんな整体はありえないのだから・・・